ピエ・ノワール②|100年前の仏人女性の一生

ピエ・ノワールとは

前回のお話から
ピエノワールとは?
アルジェリア戦争終結までの1930年~1962年の間、当時仏領だったアルジェリアに移住していたヨーロッパの人々。(フランス、スペイン、ユダヤ系等)で、100万人程いた欧州系移民の事。

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写真出典:http://mak1990.blog.jp/

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フランス人相棒のママンの話

実は私のフランス人相棒とお母さんも、ピエノーワールでした。
彼のお母さんは数年前に90歳で、波乱に満ちたその生涯を閉じました。

愛と自由というこの世で一番尊いものを、息子のフランス人相棒に与えた人でした。

無垢で、お世辞などいえない、嘘がつけない人でした。

若い頃は、スペインの故郷の村のコンテストで、一番の美女に選ばれるほどの美少女で
流暢にフランス語スペイン語、アラビア語の3カ国語が話せました。お料理がとても上手で、刺繍や編み物の名人でした。

晩年は一人暮らしでしたが、80歳を過ぎても、住まいの一軒家の、家事を全て一人で、殆ど完璧にこなしていました。

そして、彼女の家を訪ねると、いつも暖かく迎えてくれたものです。

例えば、、彼女が、美味しい手料理の昼食を用意してくれるので、

サスガに、、私も片付けくらいはお手伝いしなくてはと、、お皿を洗おうとすると、、、

「私が洗うから、ア・ナ・タは昼寝をしなさい」と私をソファに、連れていき、毛布を掛けて、私が休んだのを見届けてから、食事の後始末をしてくれました。

遊びに行くたびに、少ない自分の小遣いから、仏人相棒にお小遣いだよと、20€紙幣を嬉しそうに渡してくれたりでした。

80歳を超える、一人暮らしの少しばかりの年金で、暮らしている彼女の状態を考えると、困惑したものです。

そんな、様子の私に仏人相棒は
「彼女は何かしてあげるのが、ハッピーな人なんだ」とママンのことをいってくれました。

スペイン出身の美女で、出身地の小さな村の美人コンテストで「女王」に、選ばれたこともあるママン。

この私の仏人相棒とママン一家はアルジェリアに住んでいた、ピエ・ノワールでした。この一家の、彼女たちの事からピエ・ノワールの時代と様子を語りますね。

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ママンの最初の結婚

なぜ、相棒達一家がピエノワールになったか?、、というと

今から100年程、我が仏人相棒のママンは、14歳の時に許婚が決まり、結婚したのは16歳の時の事でした。そして結婚相手のフランス人の男性と、北アフリカのアルジェリアに渡りました。

当時はゴールドラッシュのように、一攫千金の夢を追って、フランス領だった、アルジェリアに多くの人達が、ヨーロッパから移住していました。彼らのことはピエ・ノワールと呼ばれています。

相棒のママンは2人の子供を授かり、若く美しい妻として、母親として幸せな時を、過ごしていました。

その、はずだったのですが、、、

ある時、彼女の夫は、突然蒸発してしまいました。

アルジェリアを長距離バスで旅行中に、バスの中に乗っていた、彼女と2人の小さな子どもを残して、バスが走り出すと、彼だけ飛び降りて、そのまま姿を消し、それっきり消息を絶ってしまいました。

「まるで、、、厄介払いでもしたかのようだった」

信じがたい、酷い話です。

その後、彼女は置き去りにされた、小さな子供2人と一緒に、厳しいアルジェリアでの暮らしを、何とかしのいで暮らしました。

ママンの二度目の結婚

幸運な事に、彼女は、新しい男性と出会い、2度目の結婚をしました。

会計士をしている、優しい男性でした。

2人は、とても、とても、仲がよかったそうです。そして、その時、授かった子供が、フランス人相棒です。

相棒に彼女は"Tu est un enfant d'amour!"(お前は愛の子なんだよ)と良く言っていたそうです。

その結婚は、彼女にとって、本当に幸せなものでした。

そんな、平穏な暮らしが、長く続いていましたが、、、彼女の2度目の夫が病気になぅてしまいそのまま帰らぬ人となってしまいます。

フランス人相棒、彼が13歳の時の事父親との決別です。

大黒柱を失った、一家の生活は、厳しくなりました。

彼女には、全夫との2人の子供と、フランス人相棒の、3人の子供がいた訳ですから。

相棒のお母さん、、ママンの、彼女の、努力と工夫。やり繰りに次ぐ、やり繰りで、どうにか、アルジェリアの地で食い繋いでいました。

 

5fa1d76dアルジェリアの港町

出典:http://blog.livedoor.jp/

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